『SEOマーケティングの未来を読む vol.176』
「検索結果の削除をしたい。「忘れられる権利」と「表現の自由」の話」
【1】昔の写真といつも言われる「若いな!」
昔の写真が掲載されているメディアなんかあるんですが、
よく言われるのが「若いな!」
そりゃそうです。若いときもみんなあります。
これを消したいな、と思ってもそんなことできるわけないですし、
有名人になればなるほどなかなか難しい、というのはあります。
情報を昔の分を消したいな、と思ってもなかなかできない、
今回はそういった話です。
【2】 WEBマーケティング4コマ漫画 毎週金曜日更新
■ 第300話
ゴーイングコンサーン 最終話!
記念すべき300回、なんと轟部長が退職?まんがはどうなるの?
■ 第299話
法益の話
規制を行うということは守りたい、法律で守るべき利益=法益があります。
■ 298話
バーニラ、バニラ
中毒性、広告には実に有効な場合があります。
無事300回を到達していったん充電期間に入ります!
検索結果の削除をしたい。「忘れられる権利」と「表現の自由」の話
サイトを消したいけど消せない。
そんな話です。
あるところに、奥さんと子どもがいて、罪も犯さず真面目に生きている、ある男性。
その男性が、とある裁判を起こしました。
「Googleで自分の名前を検索すると私の逮捕記事が出てくる」
「これはプライバシーの侵害だからGoogleの検索結果から削除して欲しい」
というのが訴えの内容です。
実はこの男性、昔女子高生に金を払い、わいせつな行為をし、
児童買春・児童ポルノ禁止法違反罪で罰金の略式命令を受けたことがあったのです。
そして、この男性の氏名や住所で検索すると、逮捕時の実名入りの
記事が検索結果にヒットする状態だったのです。
この裁判は、過去の犯罪歴などのような、自身にとって消したい過去を
検索結果から削除する権利、俗に言う「忘れられる権利」を最高裁が
認めるかどうか、どう判断するのか、という点で注目されていました。
結論から言うと、その裁判の決定は
「児童買春の逮捕歴は今も公共の利害に関する」
「プライバシーを公表されない利益がサイト側の表現の自由より
明らかに優越する場合だけ削除できる」
と結論付け、最高裁は男性側の抗告を棄却し、Google検索からの
この男性の児童売春による逮捕報道の削除を認めなかったのです。
検索サイトの公益性を重視した結果、検索結果の削除には高い
ハードルを課した格好となっています。
インターネット上の検索結果の削除を巡る争いで、最高裁が初めて
判断基準を示したことから、各地で起きている同じような訴訟にも
影響があると言われています。
そして、この裁判はITという観点からみても非常に興味深い内容になっています。
今回のメルマガは、この裁判で争われた検索結果の削除や
「忘れられる権利」、「表現の自由」について取り上げてみたいと思います。
「忘れられる権利」とは?
インターネット上では、有益な情報と同じように、誰かの個人情報や
人目に触れて欲しくない過去の汚点、そして誹謗中傷も、同じように
いつまでも保持され続けています。
こうしたインターネットの機能によって、深刻なプライバシー侵害を
引き起こすケースが後を絶たないため、救済措置として、ネット上の
個人情報、プライバシー侵害情報、誹謗中傷を削除してもらう権利、
すなわち「忘れられる権利」なるものが提唱されるようになりました。
「削除権」「忘却権」「消去権」とも呼ばれており、
英語では「Right to be forgotten」と言うそうです。
元配偶者や元交際相手のイヤガラセによって、プライベートな写真や
映像をインターネット上に流出されるリベンジポルノと呼ばれる行為は
深刻な社会問題になっており、欧米を中心に活発に議論が行われています。
日本でもこの「忘れられる権利」をめぐる訴訟が少しずつ増えているそうです。
検索結果の削除についての最高裁の初判断は
この「忘れられる権利」を巡る裁判は、
さいたま地裁→東京高裁→最高裁の順で争われています。
さいたま地裁は
「男性には更生を妨げられない利益があり、
ある程度期間が経過すれば社会から『忘れられる権利』がある」
との理由で「忘れられる権利」を認めGoogleに削除を命じました。
このさいたま地裁決定は、日本で始めて「忘れられる権利」を
認めた裁判として注目されました。
しかしGoogle側は不服を申し立て、東京高裁に抗告します。
東京高裁は「公共の利害に関わる」として
Google側の主張を認め、さいたま地裁の決定を取り消しました。
今度は男性側が最高裁に抗告。
今回の決定を下した最高裁では、削除を認めなかった東京高裁決定を
支持し、Google検索結果の削除については
「児童買春は今なお公共の利害に関する事項」として認めず
男性側の抗告を棄却しました。
最高裁の今回の決定は検索結果の削除に厳しい姿勢を明らかにしたもの
となっており、5裁判官全員一致の結論だったそうです。
「表現の自由」か「プライバシーの保護」か?最高裁の判断は
もう少し詳しく取り上げてみます。
最高裁はこう結論づけています。
「検索事業者の表現の自由と比較して、プライバシーが優越することが
明らかな場合には、検索結果の削除を求めることができる」
「児童買春は社会的に強い非難の対象で、今も公共の利害に関わる」
「男性が妻子と生活し、罪を犯さず働いていることなどを考慮しても、
明らかにプライバシーの保護が優越するとは言えない」
つまり、最高裁は、
「表現の自由よりもプライバシーの保護の優先が明らかな場合にのみ
削除が認められる」という、初めての判断を示したのです。
表現の自由かプライバシーの保護か……最高裁の判断基準
表現の自由よりもプライバシーの保護の優先が明らかな場合にのみ
削除が認められる
というのが最高裁の決定ですが、その判断基準はどのようなものだったのでしょうか。
最高裁は表現の自由とプライバシーのどちらを優先して保護するかを
判断する際には、情報の内容や被害の程度、社会的地位などを
考慮すべきだと指摘しており、今回の決定に使われた判断基準は
以下のようなものだったそうです。
(1)表示された事実の性質・内容
(2)申立人の具体的な被害の程度
(3)申立人の社会的地位や影響力
(4)記事の目的・意義
(5)社会的状況
(6)その事実を記載する必要性
社会的に強い非難の対象とされる児童買春という犯罪だったことや、
男性の氏名だけでなく住んでいる県も入力しなければ検索結果が
表示されないことなどから、削除は認められないと結論づけられたようですね。
記者会見での弁護士のコメント
男性側の代理人弁護士は記者会見でこう言ってます。
「削除の申し立てはまだまだ続くと思うが、裁判官が削除判決を
出していいんだろうかと考えるとき、その目安にならないというのはやや不満がある」
「何年たてば犯罪報道の公益性がなくなるのかという法的判断は示されていない」
各地で起きている同じような訴訟が起こされていることから、
今後の他の裁判の積み重ねで削除の具体的な線引きが定まっていくとみられています。
「忘れられる権利」については言及しなかった最高裁
注意しなければいけないのは、今回の最高裁の決定では
「忘れられる権利」については触れられていないことです。
残念なことに、さいたま地裁が認定した「忘れられる権利」については
言及せず、
「表現の自由とプライバシーを比べた場合にどちらを重く見るか」
という枠組みを採用して判断しているのです。
同種の、男性が求めた検索結果の削除について、
欧州連合(EU)司法裁判所が下した2014年5月の判決ではGoogle
が削除義務を負うと判断し、その後「削除権(忘れられる権利)」が
明文化されています。
日本とは対照的ですね。
しかし、Google検索結果を「表現の自由」と言われても、
ちょっとピンと来ませんよね。
その辺をこれから少し詳しく説明してみます。
検索エンジンの「役割」とは
まず、Googleなどの検索エンジンとはどのようなものかを考えてみます。
インターネットによって膨大な情報が世界中から収集され、
また世界中に拡散されていきます。
世界中の人々はその広大なネットの海に拡散された膨大な情報の中から、
目当てのものを、GoogleやYahoo!といった検索エンジンを使って効率的に探し出します。
インターネットと検索エンジンは、情報を収集し続け、半永久的に
保持し、必要な時に取り出すことのできるインフラとして機能しているのです。
今回の最高裁の決定でも、こうした検索エンジンの役割を
「情報流通の基盤」と位置づけ重要視しています。
検索エンジンの「表現行為」とは
今回の裁判でGoogle側は、検索エンジンは情報を発信する者と、
検索する者とをつなぐ、「媒介者」の立場だと主張していました。
要するに、検索エンジンは、入力されたワードに応じて機械的に
検索結果を表示しているだけの媒介者に過ぎないと言うわけです。
しかし、今回の最高裁の判断は違いました。
そこがITという観点から見て面白い所で、最高裁は検索結果の表示を
「検索事業者の表現行為」
にあたると判断しているのです。
検索結果を表示するためのプログラムは検索事業者の方針に沿った結果
が出るよう設定されている、つまり、表現行為としての側面がある、
と認定しているのです。
こうした理屈により、男性の児童買春による逮捕の記事を削除するか
どうかという判断を、男性の「忘れられる権利」を考慮せずに、
男性の「プライバシー」とGoogleの「表現の自由」を比較して判断しているのです。
そして、検索結果の提供には「検索サイト事業者自身による
表現行為という側面がある」と指摘し、
「知る権利」の制約につながる安易な削除を戒める決定を下したのです。
アメリカの過去の判例でもコンピューターのプログラムは「言論」
として扱われているそうで「表現の自由」や「言論の自由」と
関連付けて議論されることがあるようです。
言われてみればプログラムも表現の自由なのかな、
という気がしてきますが、それでもやはり少し不思議な感じですね。
「まとめ
検索結果の削除を求める訴えは、今も各地の裁判所で起こされています。
今までは、過去の自分の情報をインターネットから削除したい
と思った場合、情報そのものを削除しようとその情報を
発信している者に削除するよう求めるのが主流だったそうです。
しかし近年は違っていて、情報にアクセスするルートを絶つために、
検索エンジンから検索結果の削除を求めるようになりつつあるそうです。
もし今回の最高裁の決定で「忘れられる権利」が認められた場合、
それを守るために検索エンジンの企業、すなわち民間企業が
その莫大なコストを負うことになるわけですから、
インターネットのあり方すら変わっていたのかもしれません。
ずっと過去のことが知られるのもまあ嫌なこともありますし、
『若いころの至りもあるやん』くらいもまたあるもの。
おおらかにいきたいですがそうでもないんです。難しいライン。
(記載 谷 美輝)