八田與一さんは5月8日命日で今日、台湾では追悼式典があるそうです。
先日、台湾でタクシーの運転手さんがこの八田與一さんの作った烏山頭ダムを案内してくれるという機会がありました。八田與一さんは戦時中に日本からこの台湾の地にやってきて、当時では最先端の烏山頭ダムを作り上げた方。最初駅を降りると客引きで台湾語を一方的に話してきたので好印象ではなかったけど、他にもタクシーがないので隆田駅からタクシーで烏山頭ダムに行くことにしました。
「烏山頭ダム」といっても通じないのは旅行で慣れているので、地図を見せて目的地の烏山頭ダムに丸をして、「八田與一。パッテンライ」と言うと理解したらしくその後はスムーズでした。
台湾で何でダムを見に来ているの?そう思うかもしれないのですが、観光の由来は光を観る、という語源があります。光は生きている様であって、昔は殿様や領主が土地や農業などをしている様や、城にはない人々の生きた声を聞くために旅をするというところから「観光」となったそうで、名所やレストランも好きですが「どのように生きて、そして暮らしを行っているのか」などはガイドブックやユーチューブでもわかりません。
そんなわけで、高速鉄道と台湾鉄道を乗り継いで台南市にある八田與一さんの作った烏山頭ダムまで来ました。まるでGWは烏山頭ダムさんを追いかけて台湾にやってきたようなものです。八田與一さん?誰それなんですが、八田さんは日本人で台湾では映画になったり、パッテンライといえば台湾の教科書に出てくるくらいの有名な人だそうです。
台湾といえばご飯が美味しいとか、身近に行ける海外で実際に距離を見ても石垣島からは300kmなのに、石垣島から大阪までは1600kmもあって石垣からは台湾はすぐお隣の感覚だそうです。石垣マラソンに行ったときにタクシーの運転手さんに話を聞くと船で観光に来るらしく、川平湾など名所を観光してイオンなどのスーパーや商店街でいっぱいお土産を買って帰っていくそうで、その船が来る日は運転手さんもピストンでチャーターして大忙しだそう。
話が飛びましたが、GWの研修旅行はフェイスブックにも少し記事がありましたが台湾に行き、21世紀はアジアの時代だと言われているけど実際にではアジアの台湾はどうなのか、海外特にアジアの諸国はどのように行き、何を食べてどのような暮らしを行っているのかを見ないといけないという実学を行ってきたわけです。
一方的に日本がよかった悪かったではなく、今も台湾では日本をよく思ってもらえる人がたくさんいて、妊婦さんや老人がいると誰よりも早く席を譲る人がいて、駅で困っていると「どこいくんや?」と優しくしてくれる人がいて、優しい心遣いや気配りは言葉がしっかり話も出来ず、旅人にとっては嬉しいものでした。
八田さんは、「台湾の歴代総統も彼の墓前参拝に訪れるほど、非常に台湾の農業に貢献した日本統治時代の日本人技師」で、そんな日本を離れた遠くで活躍していた日本人を知らねば、と思ったのです。
そしてこのダム公園に着くと人が多いわ、八田與一記念館まであるわでかなりの人気。
中には当時の日本の住まいがイメージしやすいように雛人形が置いていたりかぶとがあったり、これはきっと地元の人も楽しいだろうなというところ。
そして八田與一さんの銅像へ移動し、ダムを眼下に座って見る八田さんを一枚。
八田與一さんは考え事などをするとこのポーズをしたそうです。戦争が終わった後、敗戦国となった日本の関係でこの八田與一さんの銅像が撤去するように命令が下ったそうですが、命令が下っても八田さんに感謝している地元の住民がこの八田與一さん銅像をこっそり隠してたそうです。
そして戦後、時間も経ってそういった反日本などもあまり言われなくなったところで八田與一さんの銅像がまた陽の目を見るようになったとのこと。本当に愛されると言うことはもちろん国境など関係ありません。そういった日本人を愛してもらえることにも感謝です。
八田與一さんは台湾での仕事を終えた後戦争に向かうことになり、船に乗っていた所を潜水艦に打ち落とされて亡くなったそうです。そして奥さんは戦後、八田さんを追うようにこの八田與一さんの作ったダムに身を投げて亡くなったとの事。
写真に撮影してますが、ここのダムから身投げしたとガイドさんが説明してました。
ダムは危険なものなので、工事中100名以上の方が亡くなったそうですが、八田與一さんは台湾の人も日本の人も関係なくみんな丁重に葬ったといわれています。仕事に貴賎なし、国籍にも貴賎なしです。
そして、その台湾の中で何と、甲子園を目指して日本人の話を帰国してからですが知りました。台湾中部・嘉義市にあった「嘉義農林学校」ですが、略してKANO。この嘉農は何と戦時下にあった1931年に台湾から野球チームの代表として日本の甲子園にやってきて準優勝したと言う実話を元にした話です。
八田與一さんはこの映画にも出演していて、大沢たかおさんが役として出ているそうですが、台湾の人だろうが日本人だろうが、田舎の分校だろうが高校生という短い期間を憧れの甲子園に向かって全力を尽くし練習をしたものは幸せだと感じます。私の場合、野球ではなくて国立競技場を目指して雨の日も雪の日も、夏の炎天下30度以上の中でもグランドでサッカーボールを追っかけていた自分を今になって冷静に考えると、大変な事ばかりだったと思います。練習の辛さもあるが、先輩などの厳しい関係もあってもう一度あの頃に戻れと言われたら、断固拒否したい事ばかりだと感じます。
それでも、どの時代もその状況を楽しんでいたのも事実である。辛かった思い出を考えてもやっぱりないですね。フェイントの練習をしても、階段ダッシュをしても、雨の日にスライディングタックルの練習をしても、誰も褒めてもらえないし、自分が頑張れば頑張るほど上手な人やレベルの高い人がいて、朝から晩までサッカーのことばかり考えていた10代後半の頃、半分青春とは気味とは言え、その苦しさも含めて楽しんでいたのだと思います。
結果的に大してチームが全国大会に行く訳でもないし、プロになるわけでもなく、今はそれはそれで楽しくサッカーができるようになっているし、これが賢い生き方でも無いと思うが、結果として必要な忍耐と集中力、土壇場の体力にしっかりと活かされ、チームと同じように人に必要され、自分の才能を発揮できる場所を見つける能力が身につき今に到るだけで幸せなのであろうと。
話を元に戻します。
八田與一さんは台湾のここでこれだけ今も慕われています。
仕事は世のため人のため、言うのは誰でもいえますが、自分の死後にこのように行った功績や仕事ぶりに感謝されて命日に式典を行ってくれる日本人の方はそんなに多くないと思います。仕事を通じて自分を高める、そして誰かのために役に立ついい仕事をする、台湾と言う日本ではない場所でもそのことは全く変わりません。
八田與一さんのところに行く、タクシーの運転手さんは今までのタクシーの運転手さんの中で最高級に優しく、日本語はできないものの片言の説明と日本語版パンフレットを必死に説明しながら、この広い八田與一さんの烏山頭ダムをタクシーで横断してくれました。
こちらが言ったのは「烏山頭ダムに行きたい。八田與一さんを観に来た」くらいだったのですが、このダムの見所100%以上に説明つきで写真をたくさん撮影してくれたのでびっくりでした。最後には、このダムが出来る前の水門や、ここが夕日がきれいだから撮影しておけ、みたいにポジションまで依頼が入るようになり、八田さんもそうですがこのタクシーの運転手さんも思い出になりました。
このダムのおかげで、当時の人々だけではなく世代を超えて人々が水害に悩むことがなくなり幸せになったわけで、こういった仕事というのはもっと知ってもらいたいなと。
前に建設に関わる仕事をしている方と話をしていた際に、そのお父さんが大阪ドームの建設に関わったそうで、大阪ドームをみるたびに
「あの大阪ドームはな、お父さんつくったんやで」
と母などから言い聞かされていたそう。仕事に誇りを持つとか、いい仕事と言うのはそういった一言で自信がつくものかと思いますし、それがあって今も建設に関わる仕事をしています。
運転手さんが本当に親切だったのですが、確かに日本からわざわざ都会から電車乗り継いでこのダムを見に来る、となると、想像だけど自分の父か母、おじいさんかおばあさんがお世話になったダムの八田さんを、日本人が見に来るとなると親切に案内したくもなるのかとも思います。
自分のした仕事がずっと後世まで伝わる、素晴らしいことです。八田與一さんのこの烏山頭ダムに来る機会があって本当によかった、これだけでも研修の意義が150%ありました。
参考サイト
・台湾ナビ:八田與一と烏山頭水庫(台南市)
・パッテンライ!!〜南の島の水ものがたり〜
・台湾の近代化に尽くした日本人
・大沢たかお 台湾の烏山頭ダムで『KANO』記者会見
・八田與一(与一)と嘉南地方、嘉義農林学校
・台湾で愛された日本人、八田 與一
・日本人も知らなかった! 戦前の甲子園で台湾の高校が準優勝していた / 当時の日本に感動を起こした「嘉義農林学校(KANO)