北畠、帝塚山の阿部野神社です。鎮座御祭神は北畠親房公と北畠顕家公です。
マンションも、北畠、阿倍野、帝塚山、なんかの名前がついてるところが多い場所です。
阿部野神社創建の沿革
北畠顕家公は北畠親房公の御長子で、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、奥州はたちまちにその威風に靡きました。
1336年、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領 し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、1338年、京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し鎌倉を落としたあと、美濃国青野原での戦いにおいては北朝方を破りましたが、同年、摂津での戦いに 惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。やがて五月十六日、 賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年21才でした。
後醍醐天皇、足利尊氏、歴史書では当然のように出てきますけど、北畠顕家公は後醍醐天皇に強烈な諫言もしておりまして、21歳の青年がかの天皇に「北畠顕家上奏文」としていろいろ物申すなどなかなかできたものではありません。
一 地方機関を通じて非常時に供えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと
建武の親政がうまくいかなかったのは歴史のとおりですが、後醍醐天皇、足利尊氏はよくわからないことが多くて、非常に難しい時代だったのだと思います、と逃げ若の漫画にも描いてました。建武の親政が1333年、その5年後に顕家戦士、聡明な方だったことから神社の御祭神になったそうで。