熊野那智大社拝殿の前方、那智川の谷を見おろす位置に、1本の大樟が立ってまして、那智の樟 (なちのくす)です。平重盛(1138~79)の手植えと伝えられ、従って伝承樹齢は800年余だそうで。
熊野那智大社ではこの大楠のことを樟霊社(しょうれいしゃ)と呼びます。空洞化した幹の中へは、護摩木または絵馬に願い事や氏名を書き添えて手に持ち、胎内くぐりをすることができます。
那智滝が飛滝神社として御神体であるように、このクスノキにも神性が認められ、「樟霊社」と名付けられているのですが、本当に見事な楠木でして樟の根幹部に、人が通り抜けられるほどの空洞ができていますけど、立派です。熊野詣がさかんだった平安後期、熊野三山造営奉行も務めた平重盛ですが、誠実・温厚な人柄で人望の厚かったとされていましたが、清盛よりも先に亡くなり。長男の重盛に先立たれてよほど辛かったのか、京都を離れて福原に下り門を閉ざして家の中に引き篭ったとされています。
ちなみに闘鶏神社の由来ですが、源平合戦の際に源氏・平氏どちらに味方するか迷う湛増が、紅白二色の鶏、を神前で七番闘わせて神意を占い全て白色の鶏が勝利したことから源氏に味方したとする物語に、鬪雞神社の由来があるのですが、湛増は熊野別当という役職を持っていたので、こういった平重盛の熊野への貢献は当然で理解はあったはずですが、最終的には源氏に味方し平家滅亡に寄与したというのは歴史の複雑なところです。
中辺路滝尻王子にも胎内くぐりがありまして、近くには乳岩もあるのですが、那智の胎内くぐりはまた別です。