丹鶴城の由来は源為義の娘である丹鶴姫が住んでたのでたんかく、と言いまして、このあたりの周辺地域も丹鶴あたり、という地名があります。
あと、熊野本宮大社は本宮なのですけど、こっちの速玉は本宮に対しての新宮、ホテルで例えればアネックスみたいなものと理解しているのですが、ということで速玉さんは新宮という地名が今でも残っています。田辺から新宮まではくろしおなら2時間、バスなら今は2時間だけど小学生など小さい時や高校生などの時には3時間だったので、それほど地理感に長けてないものの親近感は非常にあります。
最後のインターハイも新宮高校が試合会場だったのと、長谷旅館に宿泊して朝早くから散歩でこの丹鶴城まで来た記憶がありまして。
どうでもいい話ですけど、熊野大橋は和歌山県と三重県とのはざまなので、橋を造る際に設計は誰するとか基礎工事誰するとかまあ決めづらかったそうで、基本地元企業優先でやるのが当たり前な分このへんは最終「くじ引き」で決まったそうです。和歌山県は基礎工事、三重県は上部の工事、みたいな感じだそうですが、保守とかメンテなんかはどうなんかよくわかりませんけどまあいろいろ。
新宮も製紙工場があったのに、今は熊野川向こうの紀宝町にある北越製紙さんだけになっていまして、時代の移り変わりを感じるものです。面積の80%から90%が森林なのがこの地域、筏を利用した木材の集散地として栄え、市内では製材・製紙業が盛んに営まれていたのですが、今は昔だったりします。王子製紙と巴川製紙もあって、田辺からサッカー遠征で紀伊佐野にあるサッカー場で試合時にはこの製紙工場の匂いがいつも感じれてなんか、新宮に来たなという思い出があります。ちなみに新宮サッカークラブは強いので南紀はいつもぼこぼこに負けて、あんまりいい思い出はなかったりしますがまあ記憶としては懐かしい思い出です。
Jリーグが始まる前なのでたしか日本サッカー代表が赤いユニフォームで、オリンピック代表で名波浩選手などがいた時代くらいだったような。
あの頃からすれば、仕事で丹鶴城来て熊野川見ながら思いを馳せることなるとは、全く思ってなかったですし日本代表サッカーがワールドカップでも出場が常連になるなんてことも、全く思ってなかったので人生は面白い。気付くと製紙工場はなくなってましたし、高校サッカー最後のインターハイはこの新宮高校で準決勝、PK戦で負けて終わるのですが、その時も今の状況などまったく想像もついてません。
新宮のやたがらすサッカー場なんかできていたのに気づいたのも、ほんとここ最近ですが、今の子供は本当に羨ましい。
当時のちびっこサッカーなんてお世辞にも戦略どうこうや戦術どうこうなかったような気もしますけど、一所懸命やるとか最後まで走り負けないくらいの精神あったので、これはこれでよかったように思います。少し時代は変わりますが、いわゆるダイナモ=発電機の意味ですが運動量豊富で走り負けないことだけで攻守にわたって活性化するぞ、でやっていたのでチェコのネドベド選手、オランダのダービッツ選手などのような、身長などそれほど高く身体能力ではあまり優れていないけれども秀でて活躍している選手、でもあったので。
今はダイナモという言葉は使われませんが、昔の厳しい時代で1年生から高学年の先輩試合に混じったりなどすると、必然的にダイナモ化するような気もします。
しごきや体罰に近いこともまああったりする時代だったので、ミスしたり取られたりしたらチーム内だけでなく、ベンチからも「取り返さんかい!」とめちゃくちゃ言われる中でのプレーが永遠続くので。
あの重圧プレッシャーは自分の責任は自分で絶対に回収するとかいう自己責任や、とにかく怒られないためには身体を張るとか決して手を抜かないとか、最後の最後まで全力で出し切るとか、下向かない、手を腰に当てないなどもそう、練習での体力トレーニングやランニングなども常に先頭でやり切る、みたいな精神力がつくような気がしますし、今考えればほんとよかったと思います。今でも結局人生や仕事自体がダイナモなので。