安藤直次公とは、和歌山江戸時代、徳川御三家の1つである紀州徳川家が治めた地であり、初代藩主頼宣公の家老として紀州にはいった方です。
いわば、田辺市の原型を作ったのが、安藤直次公です。
安藤直次公は、知行として田辺三万屋生産力の低い土地の痩せ地が広がり作柄も悪く、農民の暮らしは厳しいものでした。そこで、直次公は痩せ地や山の斜面に梅の栽培を奨励し、その土地を田畑の耕作不能な地域として、税を免除する保護政策をとった為、田辺、みなべを中心に梅の栽培が広がりました。痩せた土地で取れる梅の実は「やぶ梅」と呼ばれ果肉も薄く小粒であったが、これまで梅干しが僧侶が食し武士が毒消しや兵糧などに用いていたものが、江戸時代に入ると庶民も食すようになり民間治療や薬にも用いられ定着していく事により、梅干しを江戸に送る用になり、将軍徳川綱吉時代までには紀州の名産物と広く知られるようになります。
安藤直次公の政治によって貧しかった田辺3万8000石の地が輝き始めたそうで、今南高梅というブランドで日本だけでなく世界的にも有名になったきっかけは、この藤嚴神社に祭られている安藤直次公なのです。
闘鶏神社にこの藤嚴神社があるのですが、ちゃんと知ったのはほんとこの最近です、和歌山県民であり田辺市民を離れて数十年、改めて生まれた田辺の地を散策すると知らないことだらけで、新たな発見が毎回あります。藤嚴神社の安藤直次公、そして梅に関わる人たちみんな先達に大きな感謝の気持ちと、もっともっと田辺を知りたいと思いました。