『木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間』
マネジメントに関する有名な言葉です。
この言葉を言ったのは織田信長です、尾張の一大名から天下統一の寸前まで迫った織田信長、織田信長の強さには長篠の戦いのように鉄砲を使った戦いを用いた先見性などたくさんの評価がありますが、それ以外にも多くの人材がいたことも信長の強さと言えるでしょう。それぞれ織田信長に仕えた家臣には豊臣秀吉となる木下藤吉郎、丹羽長秀、柴田勝家に佐久間信盛がいたのですが、その家臣にはそれぞれ特徴がありました。
木下藤吉郎である豊臣秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」なので、創意工夫があり機転が効き中国大返しの決断など天下を取るほどの武将でしたので、木綿のように丈夫で何にでも使えるという意味です。
丹羽長秀は米なので無くてはならぬ存在、柴田勝家は戦が強い武将、佐久間は退却がうまかったそうで、それぞれ能力の異なる優れた武将がいたので織田信長が活躍できたという話です。
人にはいろんな特徴がありますが、その特徴に従って活躍できる場所をしっかり考えることが大事という話です。豊臣秀吉は天下統一を果たした武将なので有能でしたでしょうし、そのため泥臭い困難な仕事は秀吉に任せるのがよいとして重宝したのは当然でしょうけど、丹羽長秀は信長にとって古くからの遊び友達でもあり友人でもあり、信長が発した言葉や命令をしっかりとくみ取り補佐役として各武将に伝えていたそうなので、いわば監督とコーチのような役割だったためそのような調整能力は丹羽長秀以上の者はいなかったそうですし、戦いで勢いをつけるには柴田勝家の武力や戦闘能力がが最適で、劣勢の時は信盛の冷静さが頼りになる、そのような意味だったそうです。
強みを活かし弱みを消しながら信長軍として戦いに勝つ、このようなチームとしての活躍の場を与えるのが、信長は抜群にうまかったと聞きます。
マネジメントに関する有名な言葉ですが、今の時代にも相当通用する言葉だと思いますし、そうでないと1550年~1580年頃のような450年前もの武将の言葉が今まで残るはずがないんです。
あと、こちらも有名な堀秀政の話も。
(堀秀政)いつも泣き顔をしている部下がいた。他の部下はやる気が失われるので追放を願い出た。しかし秀政は「どんな人間も必ず役に立つはずだ。」と。ある日、秀政はその部下を代理で葬式に行かせた。その後「あれだけのお嘆きをくださる代理を頂戴しまして…。」と先方より礼が届いた。
— Takanori Oshiba (@takanori1976) 2014, 7月 26
堀秀政は38歳で病死したので有名ではありませんが、相当優秀な方だったようで生きていならばきっと大きな大名になったのでは、という話です。
特徴を見つけてもらえ、そして力を発揮できる場所を見つけてもらえることは、武将にとっても家臣にとっても本当に大事なことです。織田信長が活躍したのも、三国志になりますが曹操が活躍したのも人材の登用がうまく、まさに適材適所人材活躍の場を作っていたからだと、そんなふうに感じます。そしてチームを作ることで自分の弱みを消すことができる、そのようなチームを作ることこそに大将の価値がある、創業から少しずつやはり考えも心境も変化するものです。
当然ですけれども、木綿藤吉などの言葉の中には光秀は入っていません。米五郎左(こめごろうざ)は丹羽長秀の愛称が五郎、これに米がついて米五郎、あと愛嬌で「ざ」がついているのですが、ドラゴンボールでチチが悟空をごくうさと呼ぶのも愛嬌や親しみを込めてなので基本一緒かも。