IPS細胞の山中教授の本を読んでいたら「役立たずだったので山中ではなくジャマナカと言われた」というような一文がありましたが、自分で考えてみるとそういう嫌なあだ名やニックネームなどいっぱいありましたし、自分だけが過剰に怒られてるような気もしましたが、そうやって怒られたり構ってもらえたから自分が結構あるように、本当に思います。
今までの先生や先輩、会社で言う上司や盛和塾のような経営塾でもそうなのですが、人に対して指摘や怒るというのはその人の時間を取るわけで、そういう指導であったりお説教で自分の思考や行動が固まってきてるのだと今になってくれば思います。おじさんになると何度も同じ話をするかもしれませんし、何度も聞く話も聞く側はあるのでしょうけど、そんだけ理解力が乏しかったのだろうというのと、「まだ話をしてやろう」という感覚も持っていただいてたのだと思います。
数字で詰められて鬱になるとかもなかったですし、今考えても多くの先輩や上司に助けてもらったことばかりが思い出されます。
ただ、いざ自分がその立場になるとまるっきり同じように教える気にならないのはなぜなのか、というのは思うのですが時代が異なるからだと思いますし、基本教えることなどは実に下手だし自分自身が興味ないと感じていますし、「教えるよりも教わりやすい環境作り」のほうが大事と思うからです。もっと言えばこけて挫折して逃げたくなって嫌になるくらいに仕事しないと、1つ1つの言葉が軽くしか受け止められない、と思えるからです。40代になって不惑四十なのですがこのへんはまだ迷いまくりです。
これは経験則なのですが、真剣に取り組んでいる社員でないと
「私は不安がありましたが、社長が問題ないというのなら問題もリスクも許容範囲なんですね、わかりました」
という理解力ある言葉が出てこないからです。問題ない理由を必死に説明が必要な環境も困りますし、説明しても理解されないだろうと思いながら説明するのも大変なのです。こういうのは社歴の問題ではなく日々の思考やスタンスの問題なのだろうと。